DR.ケンゴの歯~トフル・ライフ 放送内容
当院の院長、中平賢吾先生がパーソナリティーをつとめる、ラジオ番組
「DR.ケンゴの歯~トフル・ライフ」(南海放送:「ニュースな時間」内で放送。)の放送内容のご紹介です。
2019.01.23日放送
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よろしくお願いします。
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中平歯科クリニックの治療方針は、とにかく一人ひとりの気持ちに寄り添い、そして意向を聞きながら、ゆったりした気持ちの中で治療を進めてらっしゃるというお話を先週お伺いしました。
そもそもですが、中平先生が歯医者さんになろうと思われたきっかけは、お父様がとても有名なインプラントのオーソリティでいらっしゃいますけども、まあそういった影響が大きかったのですか?
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そうですね。
実はですね、まあ高校3年生の夏頃まではですね、何になろうかな?という風にずっと考えていて、漠然としていました。 -
3年の夏?高3の夏まで?
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そうですね。
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まだ考えてなかったのですか?
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はい。
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じゃあ、とても楽しい高校生活を送ってらっしゃったのですね。
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そうですね、はい。
なりたいものがけっこう多くてですね。 -
ああ、多かったのですね
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そうですね。
けっこうコンピュータが好きで、そっちの道にも進みたいなというのを考えてたりとかもしたのですけれど、まあ高校3年生の夏頃にですね、まあそろそろ進路を固めろと、学校の先生からも言われて… -
どうするの?って思いますよね。
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そうですね。
まあ迷ってたんですけれども、ちょうどその頃ですね、僕の姉が歯科医師になりました。でも、姉は女性なので、そのうち子育てなどで歯医者をやらない期間とか出てくるんじゃないかというのがあって、一方、兄は兄で、歯医者とは全く違う方向に進み始めました。
父親は初代なのですが、僕が高校3年生の頃にはクリニックを今治と松山と、あと東京の銀座の3箇所で展開をしていました。そのクリニックを一代で潰すのはもったいないと思ったのが高校3年生の夏頃でですね。
なので、そこからじゃあ僕も歯医者になろうかっていう話をしましたね。
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お父様からは歯医者になれっていうようなことは言われなかったのですか?
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父親はもうほんとにやりたいことをやれと、という感じでした。
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かっこいいですね。
3つも(クリニックを)持ってらっしゃって、あれだけ名前もね、知られた先生だったら、そりゃ後継者を作りたいと思うのですが、もう、のびのびという感じだったのですね? -
そうですね。はい。
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それで、中平少年はそれまでコンピュータのほうへ行きたいなと思っていて、高校3年の夏頃から歯医者になろうかなと思いはじめて、それからの勉強は間に合ったのですね。
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そうですね。
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それもすごいなと思います。
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まあもちろん、それまでも試験勉強はもちろんしていました。
どこのね、大学に行くにも勉強は必要ですから。 -
はあ、もともと優秀な生徒だったのですね。
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いやいや、そんなことはないです。
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そうですか。
でも、それから道を決めて。 -
そうですね。
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大学に入ってどうでしたか?
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そうですね。
一番最初、大学に入って1年目2年目というのは、あの基本的には座学というかですね、基礎科目が多くてですね。歯医者のことというよりか、まあ化学のこととか、生物のこととか、頭体の組織のこととか、そういったことをけっこう勉強する機会が多かったですね。けっこう退屈な時期ではあったのですけれども、大学3年生のときにですね、ようやくまあ臨床科目が始まりました。臨床を学ぶとですね、自分でもっともっと学びたいという気持ちが強くなって、それで歯科の勉強に関する同好会を作ってですね。みんなと一緒により臨床に近い勉強をしたりとか、そんなことをしてました。
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勉強をしているのにさらに勉強をしようということだったんですね。
年代的に同級生とかと遊びたいじゃないですか。
その中でさらに勉強したいということで同好会も作っちゃったのですか? -
そうですね。
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もう本当に(歯医者に)はまったんですね。ピタリと…。
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そうですね。はい。
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自分の中に、これだ、天職だという感じですね。
それで、そこ(同好会)では、どういう風にどんなことを学んでいったのですか? -
学校ではやっぱり学べない臨床の場が中心ですね。
学校では臨床のことも、もちろん勉強するのですけれども、例えば実際の歯医者でどういうことをしてるのかとか、実際のクリニックの様子であったりとかは、やっぱり学ぶことができません。
なのでまあ、そういったところを見学しに行ったりしました。
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すでにその頃からイメージトレーニングをされていたのですね。
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そうですね。はい。
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臨床の場、自分の力をつけて、いい治療をしたいって思ってらっしゃる方も多かった大学なのですね。
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そうですね。
やっぱり周りには志を同じようにする友達がやっぱり多かったですね。 -
歯科医師を目指すぞってことになると、日本で有名な、中平先生お父様ともいろいろ話をするようになったのですか?
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そうですね。
それまでは、父親が色々と、ああしろこうしろという感じで、教えを受けてはいたのですけども父親から一方的に話しをしてくれるという感じで、キャッチボールという感じではありませんでした。まあ実際、僕自身も歯科医師の卵としてですね。色んなことを勉強していく上で、父親の大変さであったりとか、ここまでインプラントを極めた苦労であったりとか、そういうのも理解できるようになってきて、そこからしっかり話すようになってきました。
その中でクラブ(同好会)のこととかも話をしたりとかし、父親もクラブに賛同してくれました。
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学校の中で目立ったでしょうね。そういうさらに勉強する同好会を作ったというのは。
「今頃の学生すごいのいるな」みたいなことで注目されたんじゃないですか? -
はい。
僕の母校ではですね。そういう勉強のクラブというのはなくて、僕は初めて作ったようなクラブだったのですけれど、もともとやっぱり同好会からスタートですね。部活に昇格するには3年間必要なのですけれども、僕がそのクラブを立ち上げたのが大学3年生の頃だったので、まあ3年経つとですね。僕が卒業してしまう、というのがあって、早くなんとか部活にしたかったのです。
部活の予算の問題もあるので、生徒会であったりとか、教学部っていうところがあるのですけど、そういうところにもかけあって、2年であの部活に昇格をしていただきました。 -
すごいですね。
その、何かを立ち上げるというリーダーシップもあって、そして、これまで決まっていた決まりも変えてしまうようなプレゼン力も持ち合わせているのですね。あの、先生は卒業式のときに挨拶したとお伺いしています。
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ああ、そうなんですよ。
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卒業生代表で。
そして、ほんとに世に放たれたわけですね、先生がね。 -
そうですね。
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これまで、培ってきたものをまた社会に還元すると…。
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そうですね。はい。
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ということで、今、松山で花を開かせております。
先生のクリニックは松山市千舟町のジュンク堂向かいのビルの7階にあります。
松山中平歯科クリニックの中平賢吾院長でした。どうもありがとうございました。
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ありがとうございました。
よろしくお願いいたします。